活動の様子

2020年5月の記事一覧

対面式

5月25日(月)に対面式を行いました。今年は各教室のテレビによる放送で行われ,生徒会長が上級生を代表して新入生歓迎の挨拶をしました。その後,新入生代表生徒が挨拶として,新しい生活への期待と脇高生として過ごすことのできる喜びを力強く述べてくれました。これから,3学年力を合わせて,より良い脇高を作り上げていってほしいです。

 

脇町高等学校創立記念日について

 5月11日は本校の創立記念日です。緊急事態宣言による臨時休校中ではありますが,本校の歴史を振り返りながら,125年という伝統を感じ,生徒のみなさんが創り出していく,未来の脇町高校について考えてほしいと思います。

          ~歴史と伝統の125年~

 わが脇町高校の前身は旧制脇町中学校です。旧制脇中は、最初徳島県がまだ高知県の管轄下にあった明治12(1879)年2月10日に開校されています。しかし、その後経済的不況もあって、在校生の数が減少し、同18(1885)年4月15日に廃止されました。その後、明治29(1896)年3月31日に徳島尋常中学校の第一分校として、この脇町に再び設置されました。そして公式には本校の歴史をこのときから数え、今年で125年となります。
 明治32(1899)年4月11日には第一分校から、徳島県脇町中学校として独立しました。初代校長は、大久保高明氏でした。同34(1901)年には第1回の卒業生を送り出しています。歴史館にはこの時の39名の卒業写真がありますが、5年間の本校での勉強を経て、進学する者、就職する者、自営する者とそれぞれの道に分かれて巣立っていきました。芳越歴史館にはそれ以降、令和2(2020)年3月1日に卒業した今年の卒業生までの卒業写真が全部そろっています。
 大正3(1914)年末には、ベースボールを「野球」と本邦初訳した中馬庚(ちゆうまんかのえ)校長が着任、そのことは後年「中馬庚野球之碑」として記念されています。ついで第5代校長に美禰嘉衛七(みねかえひち)氏が仙台の第一中学から着任していますが、旧知の著名な詩人、土井晩翠(どいばんすい)氏(当時、仙台の第二高等学校教授)に、本校校歌の作詞を依頼、今、私達が歌っている校歌「見よ、かの蒼天、雲ゆくところ・・・・」ができました。
 昭和17(1942)年ころから20(1945)年の終戦までは、教育に戦争が大きな影を残しています。授業はなしで、野外教練や演習が多くなりました。クラブ活動もこの時代、陸上部は国防競技部に、射撃部は射撃班に変わるなど、戦争のためのものでした。それ以前においては、「質実剛健」の校訓のもと、剣道部や柔道部をはじめ、相撲部、庭球部は度々県下優勝し、全国大会にも出場しています。現在も隆盛である本校のラグビーも、昭和4(1929)年、長谷川茂雄先生を迎え、「四国ラグビー発祥之地」としてスタートし、戦前も7回、全国大会に出場しています。
 昭和22(1947)年、新制教育制度実施により、新制中学校が各町村にでき、わが校は3年制の新制高等学校となりました。その発足は昭和23(1948)年4月1日です。終戦からこの時までは混乱期で、旧制中学校生徒と併設された新制中学校の生徒がおり、また男女共学により、美馬高女(現穴吹高校)から女子生徒が移ってきて、男子校が一時に華やいだといいます。本校のみの、全日制普通科高校となったのは昭和38(1963)年からです。新制高校の卒業式も今年の3月で71回目となりました。
 この125年の間に送り出した卒業生は、旧中卒3,092名、高校20,785名の23,877名にのぼっています。すでに亡くなられた先輩諸氏も多くなりましたが、明治、大正、昭和の各時代のリーダーとして活躍されました。また時代が平成から令和となった現在も、各専門分野にわたる学問の世界や経済界、教育界になどで多くの先輩が活躍中です。これらの脇町高校の歴史と伝統の痕跡の一部は芳越歴史館に集められていますが、私たちは今後、先輩たちのこれらの足跡から学びつつ、令和の時代の新しい脇町高校の伝統を、先生方や同窓生のみなさんと手を携えながら、創造していきましょう。