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2017/12/26

平成29年度同窓会総会記念講演会

| by:芳越同窓会
平成29年度脇町高校芳越同窓会総会記念講演会講演録
                                              〈2017年8月6日(日)実施〉


「国際ビジネスに携わり34年-その軌跡」

                                                        脇 敏博 氏(高21回卒)



講師紹介 田島理事(高21回卒)より

 本日の講師の脇さんとは,高校2年の時に同じクラスだった。同窓会名簿ではずっと住所がシンガポールになっていたので,一生会えないと思っていた。2011年に,県内企業10社ほどで上海に行った時,42年ぶりの再会を果たした。彼は横浜国立大学を出て,ゼネコン大手の鹿島建設に入り中近東に赴任した。その後,バーコード機器国内トップメーカーのサトーホールディングスにヘッドハンティングされる。サトーは今東証一部上場だが,サトーを成長する軌道にのせたのはこの男。海外展開の多くは彼の仕事。副社長まで務めた。彼は1年の内120日飛行機に乗りマイレージが36万マイルたまって,その航空会社ではNo1だったそうだ。いまだに海外を行き来している。

 

講演内容

 脇町高校の校舎に入ったのは,47年ぶりとなる。変わっていないのは,表の校舎の塀ぐらい。その上で弁当を食べたのを覚えている。国際ビジネス34年とあるが,まだ現在進行中。先週も,ある企業から頼まれ,中国で事業をおこなう際の責任者を探してほしいということで打ち合わせをした。

 海外経験の中で,最初のエポックメイキングな事件は,鹿島建設に就職して2年目の1977年に関わったIJPC(イラン日本石油化学)の件である。三井物産が石油化学の事業をおこなうため設立したのがイラン日本石油化学,通称IJPCである。イランの気候は過酷で,加えて当時は外部との通信手段は限られていた。そんな中,私はペルシャ語を話せたので,現地の人と話すことができ革命が起きそうだということを知った。しかし,上司は誰も信じてくれなかった。IJPCの基地はクウェート・イラク・イランの国境のバンダルシャフール,現在はバンダルホメイニと呼ばれる町にあった。映画館の爆破事件があり,隣に住んでいたインド人の新婚夫婦が亡くなった。危険を察知し,私は上司の許可も得ずに,妻をテヘランから日本に帰した。バンダルシャフールに帰ると革命に伴う戦闘が始まっていた。皆で空港のあるアバダンまで行くと,他国は,自国民を助けるために空軍が来ていた。日本だけが来ていない。陸路でテヘランから北へ逃げるルートや,海を越えるルートでの脱出を試みたが全部失敗し,捕まった人は収容所に入れられた。私を含む数名は皆を送り出す役まわりだったので現地に残っていた。しかし,そこでも色々事件が起きた。検問所で逮捕された韓国人が銃で撃たれて亡くなるのを目の前で見た。1979年の1月,テヘランへの逃避行を開始した。貨物列車に身を潜め,大小便も車内のその場でする中テヘランに着いた。ホテルの日本料理店で食料を調達し,闇マーケットで日本円をかき集めてテヘランで過ごすこと1ヶ月。一度は航空機に乗れたものの軍に追い出された。それから一週間後,ルフトハンザ航空の飛行機に乗れてやっと逃げ出せた。この経験から,もう二度と海外は行きたくない,日本も信じられないと思うようになった。通貨も信用できず,しばらく純金を持っていた。

 しかし,また社命を受けて止むを得ず海外赴任となった。シンガポールに初めての海外営業拠点を設置するという目的で東南アジアに行くこととなった。シンガポールで営業中に巡り合ったのが,海外事業を展開しようとしていたサトーという会社だった。当時,資本金1億で,90億ちょっとの売り上げだった。工場建設地選定のため,この会社の当時のオーナーといっしょに東南アジアを2~3ヶ月かけて調査した。マレーシアに鹿島の施工で工場をつくるということになってオーナーが帰った後,サトーの当時の専務を通して「営業拠点をゼロから立ち上げてくれないか」という話をオーナーから頂き最終的にそれを受けた。シンガポールを拠点に活動を始め,会社をゼロから一人でつくった。今はみなさんが目にする商品に付いたバーコードも,当初は使い始めたのは製造業界だった。脇町高校の2級上の先輩が松下寿電子工業のシンガポールの責任者で,この方のおかげで最初の数台のバーコードプリンターが売れた。そういう経過で営業が始まり,マレーシアにも営業拠点の会社をつくることとなった。

 その頃,ヨーロッパではベルギー,アメリカではサンフランシスコに代理店駐在員が各一人という具合だった。直接取引するため,イギリスの会社を買収し,加えてドイツを拠点に大陸側ヨーロッパの各地に法人をつくった。フランスの会社も買収した。その時の大きな事件としては,ヨーロッパの本部であるドイツの現地法人の売り上げがよくなかったが,ドイツは労働組合が強く解雇が難しいなど会社経営には厳しい国だった。そこで,本部をベルギーに移転した。ベルギーは外資系企業に優しく解雇は比較的容易だった。連れて行った幹部13人も結局全員解雇した。ビジネスは大成功とか楽しい話ばかりではない。10敗11勝だ。最後の一つを勝てばよい。その後,また本部をドイツに戻し,フランクフルト,ハイデルベルグに工場をつくった。ドイツ人の下で働くのは嫌だと言うポーランド系の人たちのために,ワルシャワ南方に会社をつくったりもした。辛いことで今だに覚えているのは,ベルギーでの上級幹部2名(英国人、アイルランド人)を解雇するときのことだ。彼らとの最後の食事は4時間一言もしゃべらずに黙々と食べるものだった。他にもイギリスでの話がある。いくつかの町の会社を買収した時,社員400人以上の会社の幹部社員解雇と会社の縮小整理を任された。解雇しようとした社長の奥さんが押しかけてきた。部屋の鍵を閉め,彼女がご主人になだめられて,帰って行くのを待った。その町を歩いていると解雇した人や彼らの家族に会う。アメリカでも辛い話はある。シリコンバレーのサン・ノゼに会社をつくった。たばこを吸いながら(今は吸ってない)会社や日本の動きなどをしゃべったら,それを聞いていた社員が弁護士を雇って解雇しないように手を打ち訴訟になった。解決するため東海岸にあるノースカロライナのシャーロットという町に移転した。西海岸の人たちを全員連れて行けないとの理由で解雇したかったからだ。サン・ノゼから13人だけを選び,ある日突然車で移動した。

 シンガポール永住権を94年にとった。サトーは紙パルプを扱うので,エストニア,ラトビア,フィンランドでも仕事をするが,フィンランドでは気温が-16度。40度前後のシンガポールから飛んで行くと温度差がすごかった。体の疲れを感じ始め,当時会社が上場した後に,55歳になったら役員を辞めようという提案を日本の役員会ではかったこともある。58歳の時には中国語を勉強しようと上海の大学に入学した。会社には月1回の役員会は出席するという条件で願い出た。クラスは16~20人くらいで全員20代。在籍を続けるため個人資金で投資会社をつくってビザを取りなおしもした。これが2011年の終わりの頃である。さらに中国に滞在したかったため,2012年にサトーの役員を自主退任し60歳にして無職に。今は徳島県の海外展開企業の支援やコンサルタントをしている。

 上海在住のときのエピソードがある。尖閣問題の時はできるだけ中国人のそばに行かないようにしていた。そばに行くと必ず議論をぶつけられる。しかし適当には返事をできない。電話等よく盗聴されていると言われることがあり,電話の通話音質は途中で変わるし,テレビやインターネットも海外からの報道で中国の件に触れた瞬間に切断される。そんな時,空港で大声で尖閣諸島の話をぶつけられた。「俺は韓国人だ」と言って逃げた。中国を悪く言う人がいるが,中国人は個人だと良い人が多い。特に上海人がそうだ。彼らの性格は良い意味で大阪の人そっくり。はっきりとものを言う。お金のこともしっかりしている。そして上海の人は比較的,日本人に理解を示し寄り添う動きをしてくれる。上海に日系企業が多く日本人が多いのもこうした点にある。また,上海人は一般的に裕福だ。上海人が他の地域の人民よりも比較的優先されている。彼らは実は日本が大好きである。尖閣の件が落ち着くと,タクシーではわざわざ日本語のラジオや,演歌の録音したものを流してくれる。中国は1つの国の中にヨーロッパのような中小の国々があるような状態。地域によって言葉や性格が全く違う。それを考えないで投資する企業はみんな失敗している。

 出張中の旅先でも色々な人に会った。堺正章さん,中井貴一さん。機内で帽子をかぶっていたので注意したら有名な女優さんで嫌がられた。HP(ヒューレッドパッカード)のフィオーナさん、彼女は後に大統領選挙にも出た,会社の受付からトップに上り詰めた女性。彼女は機内で役員会を始めた。会社の買収のような重大な話を始めた。日本企業にはそんな人はいない。

 気がつけば34年。よくもまあ,これだけ世界を走り回った。


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