表紙
 

芳越同窓会名簿の取り扱いについてお願い

会員名簿は、同窓生の親睦を深めることを目的としています。  
個人情報保護の観点より、営利目的に使用することや、会員以外に貸与・転売することは一切禁止されています。取り扱いには注意して下さい。
 

ご案内・報告

芳越同窓会より >> 記事詳細

2018/10/26

平成30年度脇町高校芳越同窓会総会記念講演会講演録

| by:渉外課

平成30年度脇町高校芳越同窓会総会記念講演会講演録
                     平成30年8月5日(日)実施


『我が国の近代医学の黎明期に活躍した先人達』

     公益財団法人 野口英世記念 副理事長 竹田 美文 氏(高5回卒)



 今回,明治の初期に活躍し,日本の医学に貢献した阿波徳島藩の3人の先人である芳川顕正,長井長義,三宅速と,日本の近代医学の黎明期に活躍した彼らにまつわる人々について語っていきたい。

 本題に入る前に世界の話をしたい。『近代医学の建設者』(岩波新書・1943年(昭和17年)初版)は,ロシア人メチニコフが書いたものである。メチニコフは,フランスのパスツール研究所で白血球が人間の感染症を防ぐ役割をすることを発見し,1908年にノーベル生理学医学賞を受賞した。彼が近代医学の建設者として挙げたのは,パスツール,リスター,コッホである。フランスのルイ・パスツールは1861年に「微生物の自然発生説の否定」という画期的な説を打ち立てた。それまで,微生物は条件が整えば「無」から発生するという説が一般的であった。それと期を同じくしてイギリスのジョセフ・リスターという外科医が,1867年に消毒によって手術後の化膿を防げるということを発見した。少し遅れてドイツのローベルト・コッホが1882年に結核菌を発見した。

 日本では,リスターが消毒法を発見した1867年(慶応3年)に大政奉還があり,明治維新へと至る時期であった。幕末期,幕府により現在の長崎大学医学部の前身である長崎医学伝習所がつくられ,そこでポンペという外国人医師に長與専斎と松本良順が医学を学んだ。

 この長與専斎の事績には2人の阿波の先人が関わる。芳川顕正と長井長義である。長與は1838年(天保9年)大村藩に生まれ,大阪大学の前身である適塾で福沢諭吉に学び,さらに長崎に留学し,ポンペとその後任であるマンスフェルトから西洋医学を学んだ。

 明治新政府が岩倉使節団を組織した時,長與はそれに参加するため井上馨のもとに随行要請の陳情に出向いた。その際,そこには同じ目的の先客,芳川顕正がいた。芳川顕正は山川町出身である。1842年(天保12年)に医者の家に生まれ,藩の医学生として長崎で学んだ。維新後は官僚となり,財務幣制調査のため伊藤博文とともに米国にも渡った。東京府知事,文部大臣,司法大臣,内務大臣,逓信大臣を歴任し,1907年(明治40年)に日本花柳病予防協会の初代会長になった。日本花柳病予防協会は現在の「性の健康医学財団」であり,日本の性感染症のコントロールを担う機関である。この芳川が井上馨邸で長與に使節団随行の機会を譲った。芳川は長與のその後の活躍のきっかけを与えたことになる。

  長與が随行した岩倉使節団は1873年(明治6年)3月ベルリンに到着,長與はドイツ医学の調査に取り組んだが,そこで長井長義の助けを得た。長井は1845年(弘化2年)に現在の徳島市で医者の家に生まれ,長崎へ留学しマンスフェルトに師事した。1871年(明治4年)第1回国費留学生としてドイツに留学中,長與専斎の調査に協力した。帰国後東京大学教授を務めた。長井の最大の業績はエフェドリンの発見であり,現在も気管支拡張剤として喘息などの治療に使用されている。日本近代薬学の祖として,徳島大学には名前をとった長井講堂があり,東京渋谷の長井記念館には日本薬学会の本部が入っている。

 長與専斎は岩倉使節団から帰ると日本の医学のトップに立ち,東京司薬場(国立医薬品食品衛生研究所の前身)を創設した。さらに初代衛生局長として北里柴三郎をドイツへ派遣した。北里柴三郎は1853年(嘉永6年)熊本の阿蘇に生まれた。古城医学校においてマンスフェルトに医学を学んだ後,マンスフェルトの奨めで東京大学医学部で学んだ。卒業後,長與専斎に命じられドイツに留学し,コッホの弟子となり,破傷風菌の純粋培養に成功し,さらにベーリングとともに世界で初めて感染症の抗血清療法を発見した。1890年(明治23年にドイツの医学雑誌に発表したジフテリアと破傷風の抗血清療法の論文では,北里が破傷風の抗血清療法を担当し,論文の3分の2は北里によるものであった。この論文が1901年(明治34年)のノーベル生理学医学賞の対象論文となった。しかし北里は受賞できなかった。東洋の島国日本はまだ欧米から相手にされていなかった。

 1892年(明治25年)に帰国した北里は,福沢諭吉が私財を投じて創設した伝染病研究所の所長に就いた。そして2年後,北里は香港でペスト菌を発見した。世紀の大発見である。北里が東京大学医学部でペスト菌発見の帰朝講演を行った時,当時東京大学医学部の学生であった志賀潔が聴講していた。講演に感動した志賀潔は,卒業後直ちに伝染病研究所に入り,入所の翌年赤痢菌を発見した。ほぼ同じころ,1908年(明治41年)に秦佐八郎が伝染病研究所に入所した。彼は後にドイツに留学し,エールリッヒとともに梅毒の特効薬であるサルバルサン606号を発見した。

 野口英世は,志賀潔が赤痢菌を発見した翌年,秦佐八郎と時を同じくして伝染病研究所に入った。志賀の赤痢菌発見と野口の生涯には,運命的ともいえる大きな関係がある。フィリピンのマニラで赤痢が大流行した際,アメリカ政府の調査団長のサイモン・フレキシナーが経由地の日本で,赤痢菌発見者である志賀潔を表敬訪問した。そのとき野口英世が通訳を行った。

 野口は1歳半で左手に大やけどを負い,15歳の時,カリフォルニア大学医学部を出た渡部鼎に左手の手術を受けた。手術の成功に感動した野口は,渡部の会陽医院に住み込んで医術を学び,医術開業試験に合格して医師免許を取った。それと同時に野口は,渡部から英語を習得していた。野口は通訳をした縁を頼ってペンシルバニア大学のフレキシナーのもとに留学した。1903年,フレキシナーはロックフェラー医学研究所の初代所長に就任した。フレキシナーの要請で,野口はロックフェラー医学研究所の初代メンバー5名のうちの一人として研究に従事することになった。

 野口の業績のうち,最たるものは梅毒の研究である。当時の最先端の医学研究は梅毒であった。野口は1913年(大正2年),進行性麻痺及び脊髄癆(末期梅毒)患者の脳中に梅毒スピロヘータの存在を確認した。末期梅毒の患者は,一種の精神疾患を引きおこす。東京大学精神科教授であった内村祐之は,「梅毒末期に起こる精神疾患が梅毒スピロヘータによるものであること,すなわち精神疾患が感染症であるという野口英世の発見は,近世の精神医学の発見の中でも最も高く評価されるべきものである」と述べている。

 もうひとつの野口の業績は黄熱病の研究である。エクアドルでは黄熱病と診断された患者からスピロヘータを分離してワクチンを作り,エクアドルから黄熱病と考えられていた病気をなくした。この時,野口が発見したのは実はワイル病の病原体であった。ワイル病と黄熱病は症状がよく似ていたためである。実はワイル病の病原体は,すでに稲田龍吉,井戸秦によって発見されていた。ワイル病の病原体を黄熱病の病原体として発表したことは間違っていたが,ワクチンを開発して病気を治したという業績はまぎれもない事実である。

 稲田龍吉と井戸秦は1915年(大正4年),九州帝国大学医科大学講堂でワイル病スピルへータ発見の報告をした。このとき外科教授として在籍していた三宅速は,この報告を聞いたと考えられる。三宅は1866年(慶応2年),三島村(現在の美馬市)に生まれた。12歳で単身東京に行き,東京帝国大学医科大学を卒業した。1898年(明治31年)にドイツに留学し,帰国して大阪府立医学校に務めた。さらに再度ドイツ留学し,1904年(明治37年)福岡医科大学(後の九州帝国大学)教授に就任した。1922年(大正11年)にドイツでの学会出席の帰路,同じ船に乗り合わせたアインシュタインと知り合った。三宅速は1945年(昭和20年),岡山の大空襲の日に夫人とともに防空壕の中で焼死した。九州大学定年後に住んでいた芦屋から岡山の三朝温泉に疎開する途中,岡山大学教授であった長男,三宅博の家に滞在していた際の出来事であった。舞中島の光泉寺にある夫妻の墓所の碑には,悲劇を悼んだアインシュタインの直筆の碑文が彫られている。「ここに三宅速博士とみほ夫人が眠る。ふたりはともに人の世のしあわせのために働き,そして世の恐ろしい迷いの犠牲となってともに亡くなった。アルベルト・アインシュタイン」。若いこれからの人に,ぜひこの碑を見てほしい。私自身は大阪大学在学中,夏休みに三宅耳鼻咽喉科の先生に薦められて初めてこの碑を見た。当時まだ潜水橋はなく,渡し船に乗って光泉寺に向かったことを覚えている。


13:39 | 投票する | 投票数(0)