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芳越同窓会名簿の取り扱いについてお願い

会員名簿は、同窓生の親睦を深めることを目的としています。  
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ご案内・報告

芳越同窓会より
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2018/10/26

平成30年度脇町高校芳越同窓会総会記念講演会講演録

| by:渉外課

平成30年度脇町高校芳越同窓会総会記念講演会講演録
                     平成30年8月5日(日)実施


『我が国の近代医学の黎明期に活躍した先人達』

     公益財団法人 野口英世記念 副理事長 竹田 美文 氏(高5回卒)



 今回,明治の初期に活躍し,日本の医学に貢献した阿波徳島藩の3人の先人である芳川顕正,長井長義,三宅速と,日本の近代医学の黎明期に活躍した彼らにまつわる人々について語っていきたい。

 本題に入る前に世界の話をしたい。『近代医学の建設者』(岩波新書・1943年(昭和17年)初版)は,ロシア人メチニコフが書いたものである。メチニコフは,フランスのパスツール研究所で白血球が人間の感染症を防ぐ役割をすることを発見し,1908年にノーベル生理学医学賞を受賞した。彼が近代医学の建設者として挙げたのは,パスツール,リスター,コッホである。フランスのルイ・パスツールは1861年に「微生物の自然発生説の否定」という画期的な説を打ち立てた。それまで,微生物は条件が整えば「無」から発生するという説が一般的であった。それと期を同じくしてイギリスのジョセフ・リスターという外科医が,1867年に消毒によって手術後の化膿を防げるということを発見した。少し遅れてドイツのローベルト・コッホが1882年に結核菌を発見した。

 日本では,リスターが消毒法を発見した1867年(慶応3年)に大政奉還があり,明治維新へと至る時期であった。幕末期,幕府により現在の長崎大学医学部の前身である長崎医学伝習所がつくられ,そこでポンペという外国人医師に長與専斎と松本良順が医学を学んだ。

 この長與専斎の事績には2人の阿波の先人が関わる。芳川顕正と長井長義である。長與は1838年(天保9年)大村藩に生まれ,大阪大学の前身である適塾で福沢諭吉に学び,さらに長崎に留学し,ポンペとその後任であるマンスフェルトから西洋医学を学んだ。

 明治新政府が岩倉使節団を組織した時,長與はそれに参加するため井上馨のもとに随行要請の陳情に出向いた。その際,そこには同じ目的の先客,芳川顕正がいた。芳川顕正は山川町出身である。1842年(天保12年)に医者の家に生まれ,藩の医学生として長崎で学んだ。維新後は官僚となり,財務幣制調査のため伊藤博文とともに米国にも渡った。東京府知事,文部大臣,司法大臣,内務大臣,逓信大臣を歴任し,1907年(明治40年)に日本花柳病予防協会の初代会長になった。日本花柳病予防協会は現在の「性の健康医学財団」であり,日本の性感染症のコントロールを担う機関である。この芳川が井上馨邸で長與に使節団随行の機会を譲った。芳川は長與のその後の活躍のきっかけを与えたことになる。

  長與が随行した岩倉使節団は1873年(明治6年)3月ベルリンに到着,長與はドイツ医学の調査に取り組んだが,そこで長井長義の助けを得た。長井は1845年(弘化2年)に現在の徳島市で医者の家に生まれ,長崎へ留学しマンスフェルトに師事した。1871年(明治4年)第1回国費留学生としてドイツに留学中,長與専斎の調査に協力した。帰国後東京大学教授を務めた。長井の最大の業績はエフェドリンの発見であり,現在も気管支拡張剤として喘息などの治療に使用されている。日本近代薬学の祖として,徳島大学には名前をとった長井講堂があり,東京渋谷の長井記念館には日本薬学会の本部が入っている。

 長與専斎は岩倉使節団から帰ると日本の医学のトップに立ち,東京司薬場(国立医薬品食品衛生研究所の前身)を創設した。さらに初代衛生局長として北里柴三郎をドイツへ派遣した。北里柴三郎は1853年(嘉永6年)熊本の阿蘇に生まれた。古城医学校においてマンスフェルトに医学を学んだ後,マンスフェルトの奨めで東京大学医学部で学んだ。卒業後,長與専斎に命じられドイツに留学し,コッホの弟子となり,破傷風菌の純粋培養に成功し,さらにベーリングとともに世界で初めて感染症の抗血清療法を発見した。1890年(明治23年にドイツの医学雑誌に発表したジフテリアと破傷風の抗血清療法の論文では,北里が破傷風の抗血清療法を担当し,論文の3分の2は北里によるものであった。この論文が1901年(明治34年)のノーベル生理学医学賞の対象論文となった。しかし北里は受賞できなかった。東洋の島国日本はまだ欧米から相手にされていなかった。

 1892年(明治25年)に帰国した北里は,福沢諭吉が私財を投じて創設した伝染病研究所の所長に就いた。そして2年後,北里は香港でペスト菌を発見した。世紀の大発見である。北里が東京大学医学部でペスト菌発見の帰朝講演を行った時,当時東京大学医学部の学生であった志賀潔が聴講していた。講演に感動した志賀潔は,卒業後直ちに伝染病研究所に入り,入所の翌年赤痢菌を発見した。ほぼ同じころ,1908年(明治41年)に秦佐八郎が伝染病研究所に入所した。彼は後にドイツに留学し,エールリッヒとともに梅毒の特効薬であるサルバルサン606号を発見した。

 野口英世は,志賀潔が赤痢菌を発見した翌年,秦佐八郎と時を同じくして伝染病研究所に入った。志賀の赤痢菌発見と野口の生涯には,運命的ともいえる大きな関係がある。フィリピンのマニラで赤痢が大流行した際,アメリカ政府の調査団長のサイモン・フレキシナーが経由地の日本で,赤痢菌発見者である志賀潔を表敬訪問した。そのとき野口英世が通訳を行った。

 野口は1歳半で左手に大やけどを負い,15歳の時,カリフォルニア大学医学部を出た渡部鼎に左手の手術を受けた。手術の成功に感動した野口は,渡部の会陽医院に住み込んで医術を学び,医術開業試験に合格して医師免許を取った。それと同時に野口は,渡部から英語を習得していた。野口は通訳をした縁を頼ってペンシルバニア大学のフレキシナーのもとに留学した。1903年,フレキシナーはロックフェラー医学研究所の初代所長に就任した。フレキシナーの要請で,野口はロックフェラー医学研究所の初代メンバー5名のうちの一人として研究に従事することになった。

 野口の業績のうち,最たるものは梅毒の研究である。当時の最先端の医学研究は梅毒であった。野口は1913年(大正2年),進行性麻痺及び脊髄癆(末期梅毒)患者の脳中に梅毒スピロヘータの存在を確認した。末期梅毒の患者は,一種の精神疾患を引きおこす。東京大学精神科教授であった内村祐之は,「梅毒末期に起こる精神疾患が梅毒スピロヘータによるものであること,すなわち精神疾患が感染症であるという野口英世の発見は,近世の精神医学の発見の中でも最も高く評価されるべきものである」と述べている。

 もうひとつの野口の業績は黄熱病の研究である。エクアドルでは黄熱病と診断された患者からスピロヘータを分離してワクチンを作り,エクアドルから黄熱病と考えられていた病気をなくした。この時,野口が発見したのは実はワイル病の病原体であった。ワイル病と黄熱病は症状がよく似ていたためである。実はワイル病の病原体は,すでに稲田龍吉,井戸秦によって発見されていた。ワイル病の病原体を黄熱病の病原体として発表したことは間違っていたが,ワクチンを開発して病気を治したという業績はまぎれもない事実である。

 稲田龍吉と井戸秦は1915年(大正4年),九州帝国大学医科大学講堂でワイル病スピルへータ発見の報告をした。このとき外科教授として在籍していた三宅速は,この報告を聞いたと考えられる。三宅は1866年(慶応2年),三島村(現在の美馬市)に生まれた。12歳で単身東京に行き,東京帝国大学医科大学を卒業した。1898年(明治31年)にドイツに留学し,帰国して大阪府立医学校に務めた。さらに再度ドイツ留学し,1904年(明治37年)福岡医科大学(後の九州帝国大学)教授に就任した。1922年(大正11年)にドイツでの学会出席の帰路,同じ船に乗り合わせたアインシュタインと知り合った。三宅速は1945年(昭和20年),岡山の大空襲の日に夫人とともに防空壕の中で焼死した。九州大学定年後に住んでいた芦屋から岡山の三朝温泉に疎開する途中,岡山大学教授であった長男,三宅博の家に滞在していた際の出来事であった。舞中島の光泉寺にある夫妻の墓所の碑には,悲劇を悼んだアインシュタインの直筆の碑文が彫られている。「ここに三宅速博士とみほ夫人が眠る。ふたりはともに人の世のしあわせのために働き,そして世の恐ろしい迷いの犠牲となってともに亡くなった。アルベルト・アインシュタイン」。若いこれからの人に,ぜひこの碑を見てほしい。私自身は大阪大学在学中,夏休みに三宅耳鼻咽喉科の先生に薦められて初めてこの碑を見た。当時まだ潜水橋はなく,渡し船に乗って光泉寺に向かったことを覚えている。


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2018/10/26

平成30年度近畿支部総会{三支部合同(徳島・近畿・関東)同窓会}

| by:渉外課
◆平成30年度近畿支部総会{三支部合同(徳島・近畿・関東)同窓会}

 平成30年度芳越同窓会近畿支部総会並びに三支部(徳島・近畿・関東)合同同窓会が,大阪リバーサイドホテルで,10月20日(土)11時から,105名の会員が集まり盛大に開催されました。今年度初めて試みた三支部合同同窓会ということで,徳島支部からはバスが仕立てられ21人,関東からは13人が参加しました。
 まず,第1部では,志賀山加洲(前田加代子・高14)さんの伊勢志賀山流日本舞踊・地唄「黒髪」が優美に舞われ披露されました。続く第2部近畿支部総会では,校歌斉唱後,井口昭則支部長(高17)の挨拶,小笠徳島支部長(高17)と山本関東支部長(高17)の挨拶,松田芳越同窓会長(高11)の挨拶,さらに,米倉脇町高等学校長(高28)の母校現況報告,徳島県と美馬市からの祝辞と続き,蔭山倫理近畿事務局長(高29)の平成30年度事業・決算報告と平成31年度事業・予算計画が了承されました。第3部では,彫刻家で池坊短期大学教授でもある岩野勝人氏(高31)の「私の美術と子ども達とのワークショップ活動」という講演がありました。岩野氏の誠実さが伝わる興味深いお話で,会員の皆さんが傾聴しました。第4部は懇親会で,近畿支部恒例の①女子会コーラス②意見交換③豪華景品の当たる抽選会④なにわ連による阿波踊り乱舞と続きました。万歳三唱と記念写真撮影後,来年の再会を約して3時過ぎに散会しました。
 何年かごとの定期に,芳越同窓会本部主催で合同同窓会を開催できないか。そして,それは同窓会の活発化とそれぞれの事務局後継のためにも必要ではないかとのご意見がありました。また,同人誌『高越山』の発行人が,山本武昭関東支部長に変更されたお知らせがありました。




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2018/08/09

平成30年度脇町高校芳越同窓会総会

| by:渉外課
◆平成30年度脇町高校芳越同窓会総会
 8月5日(日)午後1時より,本校芳越同窓会総会が開催されました。
  まず,この1年間に亡くなられた会員に出席者全員で黙祷を捧げ,ご冥福をお祈りしました。次に,松田高正同窓会長,米倉康博脇町高等学校長,各支部を代表して井口昭則近畿支部長の挨拶と続きました。
 協議においては,29年度事業報告と決算報告が行われた後、30年度役員については,牧田弘道副会長(高10回卒)と佐藤昌弘副会長(高12回卒)が勇退され,木村具幸氏(高21回卒),田島淳次氏(高21回卒),杉浦哲也氏(高22回卒)の3名が副会長に就任する案が承認されました。また,顧問として徳島県議会議員の原井敬氏(高49回卒)が推薦されました。その後,30年度事業及び予算案が認められました。
 総会閉会後,記念講演会が開催されました。『我が国の近代医学の黎明期に活躍した人達』と題し,現在福島県に在住の細菌学の権威である竹田美文氏(高5回卒)によりご講演をいただきました。そして講師紹介者は,横浜からかけつけてくださった元脇町高校職員にして高5回卒生の恩師篠原完夫氏でした。講演では,我が国における近代医学の発達につくした医学者たちの功績とともに,野口英世の実績についても詳しくお話いただけました。話の中には,幕末の阿波出身の3名の医学者にも触れられるなど,興味のつきないものでした。
 本年度は懇親会と兼ね,第2回HOME COMING DAYとして竹田美文氏と篠原完夫氏を囲む高5回卒生の会が実施され,遠路帰ってこられた友人と恩師を迎え懐かしい時間を過ごしていただきました。

○出席者数 70名(総会および講演会)
○議題について
 1.平成29年度同窓会事業・会計報告並びに監査報告
 2.平成30年度役員について
 3.平成30年度同窓会事業計画・予算案
 4.その他
○記念講演会
 演題 『我が国の近代医学の黎明期に活躍した人達』
 講師 野口英世記念館副理事長 竹田美文 氏(高5回卒)
○懇親会およびHOME COMING DAY(竹田先生と篠原先生を囲む会)


                  松田会長


                   米倉校長


 
 山本関東支部長         小笠徳島支部長       井口近畿支部長
      


 木村副会長           田島副会長           杉浦副会長


          竹田氏                      篠原氏


16:38 | 投票する | 投票数(3)
2018/06/28

平成30年度芳越同窓会徳島支部総会

| by:芳越同窓会
芳越同窓会徳島支部総会

 平成30年度芳越同窓会徳島支部総会・懇親会が,今年は徳島駅クレメントホテルで,6月16日(土)11時から,60名の会員が参集して盛大に開催されました。総会では,小笠復夫支部長(高17)の挨拶の後,平成29年度事業報告及び収支決算報告があり,平成30年度の事業案提案が承認されました。また,徳島支部役員名簿の提示と,支部会則変更の説明もありました。続いて,松田高正芳越同窓会長(高11)の祝辞(新居事務局長(高21)代読),米倉康博脇町高等学校長(高28)の祝辞,生徒進学状況や継続8年目となるスーパー・サイエンス・ハイスクール(SSH)などの学校現況報告があり,関東・近畿の各支部からも祝辞がありました。
 その後,若松福巳氏(統合前高1・昭24卒)の叙勲祝いがあり,例年の清水幸二氏(高25)と岸理子氏(高28)の司会で,賑やかな懇親会となりました。思い出を語り合いながら元気に盛りあがり,校歌斉唱後に,参加者中最年少の井出普丈氏(高46)より「よろしくお願いします」との挨拶・閉会のことばで,午後2時半過ぎに散会しました。
 また,3支部合同支部会・懇親会開催の予告がありました。秋の10月20日(土)10時半受付で11時から3時まで。場所は大阪リバーサイドホテルで,「当日,徳島駅前から貸切バス1台を出すので,ふるってご参加ください」という案内がありました。

                                         小笠 支部長


15:38 | 投票する | 投票数(0)
2018/06/06

平成30年度芳越同窓会関東支部総会

| by:芳越同窓会
芳越同窓会関東支部総会

 平成30(2018)年度芳越同窓会関東支部総会・懇親会が,今年も上野不忍池沿いのホテルパークサイドで,5月19日(土)正午から3時前まで,50名の会員が参集して盛大に開催されました。総会では,山本武明支部長(高17)のあいさつで始まり,新居文和芳越同窓会事務局長(高21)による松田高正芳越同窓会長(高11)のあいさつ代読,米倉康博脇町高等学校長(高28)のあいさつと母校現況説明,さらに井口昭則近畿支部長(高17)と小笠復夫徳島市支部長(高17)のあいさつと続き,川人祥司氏(高19)により会計・監査報告等がなされ,承認されました。
 総会に引き続き,山本吉博氏(高19),東田美代子氏(高17)の二人司会により,昨年と同様お元気な篠原完夫(さだお)先生のスピーチと乾杯から,賑やかな懇親会となりました。懐かしい談笑の中,楽しい景品当てゲーム,真鍋政利氏による横笛演奏(よしこの,阿波踊り等),校歌斉唱と続き,平田浩一副支部長(高11)の謝辞で,来年の再会を約束し合い散会しました。


                       山本支部長



               米倉脇町高等学校長



18:03 | 投票する | 投票数(0)
2017/12/26

芳越同窓会近畿支部総会

| by:芳越同窓会
芳越同窓会近畿支部総会

 10月14日(土)午前11時開会で,豊島区の大阪リバーサイドホテルにて,今年度も賑やかに70人余人の同窓生が集い近畿支部総会が開催されました。森淳子副支部長(高24)の司会で,校歌斉唱と井口昭則支部長(高17)の挨拶で始まり,米倉康博校長の母校近況報告があり,松田高正芳越同窓会長(高11),徳島県と美馬市関係,各支部からの祝辞と続きました。松田芳越同窓会長はその祝辞の中で,創立120周年募金事業等に見える母校と芳越同窓会との一体感を強調し,さらに近畿支部会員の親睦の深まりとその努力に,敬意と感謝を表しました。議題協議に入り,蔭山倫理事務局長(高29理数)からの平成29年度事業決算報告・平成30年度事業予算計画が了承されました。
 懇親会に先だって,仙波光明徳島大学名誉教授の「阿波弁のあほ,バカ方言」という親しみやすくわかりやすい講演と,脇田眞輔氏(高10)による「空手の演武と氣の体験」という興味深い「体技・わざ」の披露がありました。懇親会は梯哲雄幹事(高25)の司会,平田彰三郎顧問(高8)の乾杯で始まり,女性部コーラスや恒例の抽選会,「なにわ連」との阿波踊り乱舞と続き,橋本繁夫副支部長(高11)の閉式の辞・万歳三唱,全員の記念写真撮影後散会となりました。徳島からの往路,阪神高速道工事大渋滞にハマッタ貴重な経験?を付記しておきます。


            「近畿支部の阿波踊り」
17:34 | 投票する | 投票数(0) | 近畿支部
2017/12/26

平成29年度同窓会総会記念講演会

| by:芳越同窓会
平成29年度脇町高校芳越同窓会総会記念講演会講演録
                                              〈2017年8月6日(日)実施〉


「国際ビジネスに携わり34年-その軌跡」

                                                        脇 敏博 氏(高21回卒)



講師紹介 田島理事(高21回卒)より

 本日の講師の脇さんとは,高校2年の時に同じクラスだった。同窓会名簿ではずっと住所がシンガポールになっていたので,一生会えないと思っていた。2011年に,県内企業10社ほどで上海に行った時,42年ぶりの再会を果たした。彼は横浜国立大学を出て,ゼネコン大手の鹿島建設に入り中近東に赴任した。その後,バーコード機器国内トップメーカーのサトーホールディングスにヘッドハンティングされる。サトーは今東証一部上場だが,サトーを成長する軌道にのせたのはこの男。海外展開の多くは彼の仕事。副社長まで務めた。彼は1年の内120日飛行機に乗りマイレージが36万マイルたまって,その航空会社ではNo1だったそうだ。いまだに海外を行き来している。

 

講演内容

 脇町高校の校舎に入ったのは,47年ぶりとなる。変わっていないのは,表の校舎の塀ぐらい。その上で弁当を食べたのを覚えている。国際ビジネス34年とあるが,まだ現在進行中。先週も,ある企業から頼まれ,中国で事業をおこなう際の責任者を探してほしいということで打ち合わせをした。

 海外経験の中で,最初のエポックメイキングな事件は,鹿島建設に就職して2年目の1977年に関わったIJPC(イラン日本石油化学)の件である。三井物産が石油化学の事業をおこなうため設立したのがイラン日本石油化学,通称IJPCである。イランの気候は過酷で,加えて当時は外部との通信手段は限られていた。そんな中,私はペルシャ語を話せたので,現地の人と話すことができ革命が起きそうだということを知った。しかし,上司は誰も信じてくれなかった。IJPCの基地はクウェート・イラク・イランの国境のバンダルシャフール,現在はバンダルホメイニと呼ばれる町にあった。映画館の爆破事件があり,隣に住んでいたインド人の新婚夫婦が亡くなった。危険を察知し,私は上司の許可も得ずに,妻をテヘランから日本に帰した。バンダルシャフールに帰ると革命に伴う戦闘が始まっていた。皆で空港のあるアバダンまで行くと,他国は,自国民を助けるために空軍が来ていた。日本だけが来ていない。陸路でテヘランから北へ逃げるルートや,海を越えるルートでの脱出を試みたが全部失敗し,捕まった人は収容所に入れられた。私を含む数名は皆を送り出す役まわりだったので現地に残っていた。しかし,そこでも色々事件が起きた。検問所で逮捕された韓国人が銃で撃たれて亡くなるのを目の前で見た。1979年の1月,テヘランへの逃避行を開始した。貨物列車に身を潜め,大小便も車内のその場でする中テヘランに着いた。ホテルの日本料理店で食料を調達し,闇マーケットで日本円をかき集めてテヘランで過ごすこと1ヶ月。一度は航空機に乗れたものの軍に追い出された。それから一週間後,ルフトハンザ航空の飛行機に乗れてやっと逃げ出せた。この経験から,もう二度と海外は行きたくない,日本も信じられないと思うようになった。通貨も信用できず,しばらく純金を持っていた。

 しかし,また社命を受けて止むを得ず海外赴任となった。シンガポールに初めての海外営業拠点を設置するという目的で東南アジアに行くこととなった。シンガポールで営業中に巡り合ったのが,海外事業を展開しようとしていたサトーという会社だった。当時,資本金1億で,90億ちょっとの売り上げだった。工場建設地選定のため,この会社の当時のオーナーといっしょに東南アジアを2~3ヶ月かけて調査した。マレーシアに鹿島の施工で工場をつくるということになってオーナーが帰った後,サトーの当時の専務を通して「営業拠点をゼロから立ち上げてくれないか」という話をオーナーから頂き最終的にそれを受けた。シンガポールを拠点に活動を始め,会社をゼロから一人でつくった。今はみなさんが目にする商品に付いたバーコードも,当初は使い始めたのは製造業界だった。脇町高校の2級上の先輩が松下寿電子工業のシンガポールの責任者で,この方のおかげで最初の数台のバーコードプリンターが売れた。そういう経過で営業が始まり,マレーシアにも営業拠点の会社をつくることとなった。

 その頃,ヨーロッパではベルギー,アメリカではサンフランシスコに代理店駐在員が各一人という具合だった。直接取引するため,イギリスの会社を買収し,加えてドイツを拠点に大陸側ヨーロッパの各地に法人をつくった。フランスの会社も買収した。その時の大きな事件としては,ヨーロッパの本部であるドイツの現地法人の売り上げがよくなかったが,ドイツは労働組合が強く解雇が難しいなど会社経営には厳しい国だった。そこで,本部をベルギーに移転した。ベルギーは外資系企業に優しく解雇は比較的容易だった。連れて行った幹部13人も結局全員解雇した。ビジネスは大成功とか楽しい話ばかりではない。10敗11勝だ。最後の一つを勝てばよい。その後,また本部をドイツに戻し,フランクフルト,ハイデルベルグに工場をつくった。ドイツ人の下で働くのは嫌だと言うポーランド系の人たちのために,ワルシャワ南方に会社をつくったりもした。辛いことで今だに覚えているのは,ベルギーでの上級幹部2名(英国人、アイルランド人)を解雇するときのことだ。彼らとの最後の食事は4時間一言もしゃべらずに黙々と食べるものだった。他にもイギリスでの話がある。いくつかの町の会社を買収した時,社員400人以上の会社の幹部社員解雇と会社の縮小整理を任された。解雇しようとした社長の奥さんが押しかけてきた。部屋の鍵を閉め,彼女がご主人になだめられて,帰って行くのを待った。その町を歩いていると解雇した人や彼らの家族に会う。アメリカでも辛い話はある。シリコンバレーのサン・ノゼに会社をつくった。たばこを吸いながら(今は吸ってない)会社や日本の動きなどをしゃべったら,それを聞いていた社員が弁護士を雇って解雇しないように手を打ち訴訟になった。解決するため東海岸にあるノースカロライナのシャーロットという町に移転した。西海岸の人たちを全員連れて行けないとの理由で解雇したかったからだ。サン・ノゼから13人だけを選び,ある日突然車で移動した。

 シンガポール永住権を94年にとった。サトーは紙パルプを扱うので,エストニア,ラトビア,フィンランドでも仕事をするが,フィンランドでは気温が-16度。40度前後のシンガポールから飛んで行くと温度差がすごかった。体の疲れを感じ始め,当時会社が上場した後に,55歳になったら役員を辞めようという提案を日本の役員会ではかったこともある。58歳の時には中国語を勉強しようと上海の大学に入学した。会社には月1回の役員会は出席するという条件で願い出た。クラスは16~20人くらいで全員20代。在籍を続けるため個人資金で投資会社をつくってビザを取りなおしもした。これが2011年の終わりの頃である。さらに中国に滞在したかったため,2012年にサトーの役員を自主退任し60歳にして無職に。今は徳島県の海外展開企業の支援やコンサルタントをしている。

 上海在住のときのエピソードがある。尖閣問題の時はできるだけ中国人のそばに行かないようにしていた。そばに行くと必ず議論をぶつけられる。しかし適当には返事をできない。電話等よく盗聴されていると言われることがあり,電話の通話音質は途中で変わるし,テレビやインターネットも海外からの報道で中国の件に触れた瞬間に切断される。そんな時,空港で大声で尖閣諸島の話をぶつけられた。「俺は韓国人だ」と言って逃げた。中国を悪く言う人がいるが,中国人は個人だと良い人が多い。特に上海人がそうだ。彼らの性格は良い意味で大阪の人そっくり。はっきりとものを言う。お金のこともしっかりしている。そして上海の人は比較的,日本人に理解を示し寄り添う動きをしてくれる。上海に日系企業が多く日本人が多いのもこうした点にある。また,上海人は一般的に裕福だ。上海人が他の地域の人民よりも比較的優先されている。彼らは実は日本が大好きである。尖閣の件が落ち着くと,タクシーではわざわざ日本語のラジオや,演歌の録音したものを流してくれる。中国は1つの国の中にヨーロッパのような中小の国々があるような状態。地域によって言葉や性格が全く違う。それを考えないで投資する企業はみんな失敗している。

 出張中の旅先でも色々な人に会った。堺正章さん,中井貴一さん。機内で帽子をかぶっていたので注意したら有名な女優さんで嫌がられた。HP(ヒューレッドパッカード)のフィオーナさん、彼女は後に大統領選挙にも出た,会社の受付からトップに上り詰めた女性。彼女は機内で役員会を始めた。会社の買収のような重大な話を始めた。日本企業にはそんな人はいない。

 気がつけば34年。よくもまあ,これだけ世界を走り回った。


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2017/08/17

平成29年度脇町高校芳越同窓会総会

| by:芳越同窓会
        ♦平成29年度脇町高校芳越同窓会総会
                                 〈2017年8月6日(日)〉

 本年度も脇町高校芳越同窓会の規約に従い,8月第1日曜日である8月6日(日)の午後1時より,芳越同窓会総会が開催されました。
 松田高正同窓会長(高11回卒)の挨拶では,同窓会の本分として,規約の中でも「母校の発展に寄与する」という部分を第一義とし,今後も学校と表裏一体として活動を行っていくこと。その目的に合致する範囲で会員相互の連携を大いに図っていくことを丁寧に説明されていました。続く米倉康博校長(高28回卒)の挨拶と母校の近況報告では,生徒数の減少傾向の中にあっても,地域社会や同窓生をはじめとする学校関係者の期待に応えるべく進路実績をはじめとして学校の諸活動を益々活発におこなっていきたい旨の話がありました。
 本年度より,総会活性化の施策の1つとして,HOME COMING DAYを実施しました。これは,部活動のOBと現役部員との交流会や同一大学卒業生と現役生徒との交流会,学年単位やクラス単位の同窓会等を総会と同じ日に実施していただき,参加者は総会にも参加してもらって,総会で活動紹介や激励を行うというものです。本年度はラグビー部OBと現役部員の交流会が総会に先立ち実施されました。
 協議においては,28年度事業報告と決算報告が行われた後、29年度役員として,桐井清臣副会長(高10回卒)が退任し,喜多輝光氏(高27回卒)が副会長に就任する案,29年度事業及び予算案が認められました。
 閉会後,『国際ビジネスに携わり34年-その軌跡』という演題で,脇敏博氏(高21回卒)にご講演いただきました。脇氏は鹿島建設を経て,バーコード機械の国内トップメーカーである(株)サトーにご勤務され,副社長まで務められました。この間,世界の諸地域で訪れていない場所はないというぐらいに世界を渡り歩かれ,現地法人設立等の仕事をされてきました。現在は,サトーを退任され日本で海外展開企業へのアドバイスや事業投資活動を行われています。イラン革命等歴史的大事件に巻き込まれたことや,一筋縄でいかない海外事業展開について等興味のつきないお話があり,出席者一同、時間を忘れて聞き入りました。
 講演会終了後、恒例の記念撮影を行い,さらに懇親会を開いて一層親睦を深めました。
○出席者数 60名(総会および講演会)

○議題について
 1.平成28年度同窓会事業・会計報告並びに監査報告
 2.平成29年度役員について
 3.平成29年度同窓会事業計画・予算案
 4.その他

松田会長 米倉校長 山本支部長

左から 松田会長 米倉校長 山本関東支部長

ラグビー部員

HOME COMING DAY

桐井前副会長 喜多副会長

左から 桐井前副会長 喜多副会長

脇敏博氏 講演の様子

脇敏博氏(講演の様子)

全体写真
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2017/08/10

佐藤芳越先生作品

| by:芳越同窓会
 佐藤芳越先生よりご寄贈いただいた,校訓と校歌の意味を漢詩に置きかえられた書道作品(『校長室より』〈7/26〉記事をご参照ください)を,体育館1階(都築記念小体育館)と芳越会館3階に掲げております。






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